2016/06/14

2015RAWその1: 参加までのいきさつと結果

  最初にRAAMを参加を意識したのは2010年、退職する月に有給消化で休みを2週間とり、北海道1200kmに自走で行った時。
  帰りに埼玉600kmに寄り走行距離は14日で4000km。14日といっても1200後夜祭参加で丸1日潰れていたり、フェリー待ち等で実際の走行時間は12日ほど。最後はケツから血を流しながら走っていたし、アキレス腱炎でその後2か月ほど自転車に乗れなくなった。これだけ走っただけで後遺症もデカいしやはり私には届かない世界か。

  この後暫くはRAAMのことなんてすっかり頭から抜け落ちていた。長距離を走るのは好きで、毎年GWや夏休みに3,4000km程度のサイクリングを楽しんだ。忘れていたRAAMは2014年、SR600の3連戦+α=SR2400をやった後に思い出す。
  乗鞍が法面滑落で通行止め、迂回路で通過したため残念ながら3連戦の達成には至らなかったが、それでも悪コンディションの中走り続けられたのは自信に繋がった。
・ホテルでの滞在時間は1日4時間程度
・最後までそんなに出力は落ちていない
・後遺症も無く翌日には普通に自転車通勤できた
  山岳コースということもあり、2400kmを9日間と走行距離は少ない。それでも一番の懸念点だった睡眠がなんとかなるかもしれないと思えたことで、急速にRAAM参加への意欲が強まる。

  昔はRAAMに出場するためのクオリファイにPBPで一定時間以内ゴールというものがあったように記憶している。2014年に改めてルールを読んだところ
a)RAAMスタイルなサポートカーつきのレースを10.5マイル/hour以内で完走する
b)RAAMチャレンジ等の長距離のレースを規定タイム内で完走する
  とブルベはクオリファイレースに入っておらず、更にクルーによるサポートの無いb)ではクルー講習会に参加必須とあった。

  b)で参加資格を獲得してもクルー講習で再び渡米しなければならない。それにサポートありなんて走行をしたことがない私にとっては本番前に同じような形で練習できるa)が望ましい。
  調べるとRaceAcrosstheWest(RAW)というRAAMと同時スタートで前半部分の距離1400km、獲得標高16000mを走るレースも開催されるようになっており、これが資格獲得に最適とある。確かに同じサポートカー付きのレース、なによりスタートがRAAMと同じということはその雰囲気を味わうことができる。クルーの規模も小さくてよく、最低2人(現実的には3人以上いないと厳しい)。RAAMに参加できる大規模なチームは作れるかどうかわからないけど、参加資格もない状態で話は始まらず、まずはこれに参加して完走する。目標はRAWに設定された。

  話をRAAMに戻す。オフィシャルの情報によると参加者たちの平均は
・週30時間の練習時間
・費用総額は6万ドル
  とある。RAAMチャレンジはエベレスト登山と比較されていた。

  週30時間はなんとかなるとして、6万ドル、機材を含んでの額かもしれないがこれをすべて鈴木家の私財で賄うのは無理だ。
  従って非常に申し訳ないがクルーには自腹で参加してもらうことになる。自腹といっても現地滞在費はウチ持ち、必要なのは現地までの移動費、それから長期の休み。この条件で参加してくれるような人がどれだけ居るのだろうか。

  最初は佐藤さんが中心となってメンバーが集められた。アメリカまでの往復費を出してもいいという人が居てくれて本当にありがたかった。何より「その金額を払うだけの価値がクルーをやることにある」と考えてくれたとしたら最高だ。

  クルーメンバーを募集。以前から気にかけてくれていた立川さんに加え、冨永さん、いずみちゃんが参加を表明してくれた。

  立川さんは英語が堪能で運転もできる、英語がダメな私にとって圧倒的に頼りになる存在だ。
  冨永さんも英語が話せ、なにより過去に車でアメリカ横断した経験がある。こんなクルーに適した人はいない(ライダーも彼がやったほうがいいのではという問題が…)
  いずみちゃんは(旧)オダックス埼玉の姫。(旧)といってもいまだそのボケは健在、完全なるムードメーカーだ。運転もばっちり。

  ダンディーで頼りになる立川さんは次元、冷静沈着な冨永さんは五右衛門、紅一点の不二子、それからルパンを最も知る銭形(妻)。なんだかルパン一味じゃないか、私がルパンにふさわしいかどうかは置いといて。

  チームはこの5人。初めてのRAW参戦、わからないことだらけで、参加のための準備だけで時間はどんどん過ぎてしまう。
  苦労して立てたスタートラインは本当に嬉しく、これでもう完走したも同然、あとは走るだけ、と考えた。直後これは全くの誤りだったことに気づかされる。

  まずこのRAW、ルートの殆どが昼間にサポートカーがライダーと一緒に走ること(ダイレクトサポート)は認められていない。路側帯が規定以上の広さを持つ場所でサポートカーは停車してライダーを待ち、水や補給食を渡すことになる(リープフロッグサポート)。
  これはもちろん情報として参加前から知っていた。しかし車を止めていいだけの路側帯がある場所がなかなか無い。チェックポイントで本部との電話が繋がらず時間を食う等、トランシーバーを用意しなかった我々は連携が上手くいかずに何度か水分が枯渇する。
  なにより一番の準備不足だったのは砂漠の暑さ。私は寒いのは極端に苦手でも暑いのはそこそこ強い。熱中症で走れなくなった経験もあるとはいえ、それでも日本のブルベだったら真夏でも不快に感じることは少ない。それで暑さに強いなんて完全に舐めてた。

  スタート地点のオーシャンサイドは海から冷たい風が流れ込み、思っていたよりもずっと涼しい。夕方は寒さで毛布を買った。
  レースが始まり80km、山脈のピークに近づくにつれて気温は一気に上昇、39℃になる。この時点でもう日本では経験したことのない気温だ。そこから砂漠への下り、これはドライヤーの熱風を顔にガンガン当てられている感覚。砂漠からの上昇気流が強くて車体も安定しない。砂漠に降りると気温は43℃、フラフラになってこの中を走り続けた結果、意識を失って落車、救急搬送でリタイアとなった。
  落車したのが19時過ぎ、ダイレクトサポートの時間帯で後ろにサポートカーがいたのが不幸中の幸いだ。病院がある砂漠の町、ブロウリーの最高気温は45℃、翌日は48℃にまで上がった。この年は特に暑かったようでRAW参加者の半分がこの砂漠でリタイアしている。

  病名は脱水&横紋筋融解症、激しい熱中症&脱水で全身の筋肉が痙攣して壊死してしまった。意識障害も激しく、入院した当初は妻を認識することができずどこにいるのかもわからなかった(宇宙人に捕まったと思っていた記憶がうっすらとある)。正常に戻ったのは2日後、3日目には退院でき、サンディエゴに引き返して車椅子で帰国。こうして最初のRAW挑戦は無残に終わる。
  RAWを距離と獲得標高それからカットオフタイムだけの問題と考え、過去の経験に照らし合わせて走れる気になってしまったのが完全に敗因だ。砂漠なんて経験したこともなかったのに。

  RAW挑戦にあたり多くの人からの応援を頂いた。精神的なものも大きいけれど、金銭という形での援助も受けている。作成したRAW用のジャージを作って販売、色を付けて買ってくれた人もいた。

  応援して下さった皆さん本当にありがとう。失敗して、それから心配かけてごめんなさい。

教訓1:砂漠は熱い
教訓2:アメリカの医療費は高いので保険は十分に(3日入院で500万超

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